僧侶や神主、牧師も会場にはいる筈だが、その姿は見当たらず、読経や説教も聞こえない。しかし、亡くなった家族や友人、あるいは先祖に思いを馳せる宗教儀式には違いない。
宗教性を排除した宗教儀式は奇妙に響くかも知れないが、唯物史観で宗教を否定する共産国家ですら葬式がある。花を手向けて死者を悼むのは、人々の自然な心情だ。
ゆえに、司祭役を務める広島・長崎市長のスピーチは、「祈祷」か「祈願」と捉えるべきだろう。核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けての努力と誓う「平和宣言」は、先祖供養の祈りなのだ。
そして、祈りだからこそ、高邁な理想を説き、非現実的な薔薇色の夢を描く。世界中の人々が被爆地の心に共感し、共鳴し、さらに連帯し、核を捨てて真の平和を実現すると謳う。
この祈りの言葉に脊髄反射し、被曝の惨禍を二度と招くまいと誓うのなら、具体的方策は「核武装:を含む国防強化しかないぞ!などと、子供でも納得する正論を吐いてはいけないw
日本政府に核兵器禁止条約への署名・批准を求める下りは、遣い古されたパヨクの常套句で、自国の防衛力を毀損するだけじゃないか!と、真っ向から批判しては尚いけない。
米国とロシアの核兵器削減など核軍縮の具体的な道筋を示せと語りながら、なぜ中国や北朝鮮の核には一切触れず、かの国々に核廃棄を求める素振りも見せない?と、嘲笑うのは失礼だ。
こうした批判や嘲笑は、葬式で坊さんの唸るお経が意味不明だと喚くようなもので、大人気がない。右の耳から左の耳にさらりと受け流し、心静かに手を合わせるのが良識的な振る舞いだ。

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