マスターズで優勝したのはアダムスコットだが、あわやの失格騒ぎで注目を集めたのはタイガーウッズだった。3日目、15番ホールでタイガーが放った3打目はピンを直撃したが、ボールは反動でころころと転がり、手前の池に落ちた。スーパーショットが池ポチャとは可哀想だが、問題はその後だ。元の場所から打ち直す筈が、2ヤード左方向後ろにボールをドロップしてしまったのだ。
ゴルフのルールブックには、池ポチャの打ち直しは元の場所か、あるいは「ボールがハザート境界線を横切った地点とホールを結ぶ線上の後方」にドロップせよと書いてある。迂闊なミスと云えばその通りだが、プレー中、本人はもちろん、競技委員も含めて周囲の誰も気がつかなかった。テレビの視聴者が見付けて局に通報したと云うから、異様な眼力の凄さに驚く。
翌朝、2打罰が課され、このホールの成績が「6」から「8」になり、タイガーは優勝から遠ざかった。しかも前日の試合後、「6」と記入したスコアカードを提出済みだから、これまたルールに従い、過少申告による競技失格の罰則を適用すべきとの意見まで出た。しかし、大会運営側は自らの責任を認め、試合続行可と判断した。「正当な措置と判断したときは、例外的な事例に限り、競技失格の罰を免除したり修正することができる」と云う条文もルールブックに明記されている。
このところ復調著しいタイガーだが、まだまだ幸運の女神には微笑んでもらえない。でも、この2打罰にはあっさり納得したと云う。なぜならルールが明確だからだ。さて、本題はここからだ。ちょっと強引だが日本憲法の話だ。
憲法は法律の法律であり、ルールブックの総元締めだ。わが国では学者や議員や裁判官が憲法の条文を取り上げ、どういう意味か論じて、自らの考えや思想を述べるが、コレって奇妙な話だ。何を云ってるのか分らず、様々な解釈が成り立つとすれば、ルールブックとして無意味じゃないか。どんなに立派な学者だろうと、いや逆に世間知らずだろうと、読めば即座にルールが理解できなくちゃいけない。
解釈で誤摩化さないと辻褄の合わぬ非現実的な憲法は愚の骨頂だ。そして、何とでも解釈できるような粗雑な文章をルールの元締め扱いすれば、社会は混乱する。マッカーサー将軍の命令下、占領軍の若き米兵たちが1週間ででっちあげた稚拙な原文に、珍奇な訳文をあて、不磨の大典として神聖視するほどバカバカしいことはない。
本来は破棄すべき、どうしようもない現行憲法だ。不備な点をどしどし改正して、まともなルールブックにしよう。解釈論議に無駄なエネルギーを費やすのはくだらない。池ポチャする度に、さあルールをどう「解釈」したものかと、プレーヤー同士で神学論争をするようになったら、ゴルフは成り立たない。